奈良の歴史

奈良の歴史




前期 磯城郡田原本町唐古・鍵遺跡、中曽司遺跡など。
中期 磯城郡田原本町唐古・鍵遺跡、中曽司遺跡など。
後期 磯城郡田原本町唐古・鍵遺跡、中曽司遺跡、奈良市六条遺跡など。



前期

桜井市 箸墓古墳茶臼山古墳、 天理市崇神・景行陵など奈良盆地南東部に大型前方後円墳が集中する。 百済から七枝刀1口、七子鏡1面を贈る。石上神宮の七支刀を、これにあてる説がある。
中期 奈良市 ウワナベ・コナベ古墳、 御所市 宮山古墳など。佐紀古墳群東群、馬見古墳群で大型前方後円墳の築造が行われる。
後期 橿原市 新沢千塚古墳群、見瀬丸山古墳、高市郡明日香村 石舞台古墳など。



588(崇峻元)
593(推古元)

601(推古9)
605(推古13)
607(推古15)
623(推古31)
626(推古34)

630(舒明2)
646(大化2)
(天智9)

673(天武2)
674(天武3)
694(持統8)
701(大宝元)
710(和銅3)
蘇我馬子、法興寺を建立。
聖徳太子、摂政となる。
飛鳥地方に宮都が営まれる。
聖徳太子、斑鳩宮を建立。
飛鳥寺安居院の飛鳥大仏、鞍作鳥により造立。
法隆寺建立される。
止利仏師(鞍作鳥)、 法隆寺釈迦三尊を造立。
蘇我馬子死す、桃原墓に葬る。
石舞台古墳とする説がある。
第1回遣唐使として犬上御田鍬らを唐に遣わす。
大化改新の詔を出す。
法隆寺焼失する。
天武天皇、飛鳥浄御原宮にて即位。
道明上人、 長谷寺を建立。
当麻寺建立される。
都を藤原京へ移す。
大宝律令が完成。
平城京へ遷都、 興福寺を平城京に移建。



718(養老2)
716(霊亀2)
723(養老7)
725(神亀2)
729(天平元)

741(天平13)
743(天平15)

745(天平17)
752(天平勝宝4)

754(天平勝宝6)
756(天平勝宝8)
763(天平宝字7)
768(神護景雲2)
782(延暦元)
元興寺を平城京に移建。
薬師寺を平城京に移建。
興福寺施薬院・悲田院をつくる。
行基および橘諸兄が久米田池を掘る。
大安寺が平城京に建立される。
長屋王の変起こる。
聖武天皇、恭仁京で朝政を摂る。
墾田永年私財法を発布。
盧舎那仏造立を発願。
都を平城に戻す。
東大寺、盧舎那仏開眼供養を行う。
東大寺 二月堂御水取りの行事始まる。
唐僧 鑑真ら来日。
聖武天皇の遺品を 東大寺 正倉院に納める。
鑑真歿し、その戒院、 唐招提寺となる。
春日大社創建される。
室生寺建立される。

奈良の古地図

奈良公園周辺

表題 : ならめい志よゑづ    作成年 : 幕末頃
絵図屋庄八が幕末頃に出版した奈良名所案内図です。
北を上にして東大寺大仏殿を大きく描き、西に 興福寺、東に 二月堂・手向山八幡、南東に春日社 (春日大社)、南西に 猿沢池などを配置。名所の位置関係は分かるが、距離は正確ではありません。 元興寺の塔や観音堂、 般若寺文殊堂も実際の距離より近接して描かれています。 東大寺大仏殿と 興福寺の講堂・金堂・中門・南大門を描くので、大仏殿の落慶大法要が行われた宝永6年(1709)頃から 興福寺が焼失した享保2年(1717)正月までの景観です。 しかし、『奈良大仏前絵図屋筒井家刻成絵図集成』(奈良大学総合研究所)に収録されている 「ならめいしょゑづ」のうち、筒井正夫家蔵の3点には、細工人中沢嘉兵衛の筆で 「弘化二年十二月新調之」「嘉永五年十一月新調之」「嘉永七寅年二月」と書かれている。
本図は、文字の刻線が太いので若干発行時期がずれると思われるが同類のものであるので、幕末の出版と考えられ、 名所にイメージを与えるために、存在しない建物を描いていたらしい。なお、吉海直人氏は、安政6年(1859)2月に焼失する 元興寺の塔が描かれているので、「安政六年以前刊」とされている
(「「絵図屋庄八」について」同志社女子大学術研究年報44─4)。

長谷寺周辺

表題 : 長谷名所一覧之図    作成年 : 明治13[1880]
明治13年に有城栄二郎が松川半山の画で出版した多色刷の 長谷寺境内図。 長谷寺は、西国観音霊場第8番の札所で、平安時代には、貴族の長谷詣が行われるようになり、室町時代になると庶民の長谷詣が盛んになった。由緒書には、本尊の十一面観音像が 聖武天皇の治世に徳道上人によって「彫刻」されたことを述べる。
主な建物の名称は黄や赤で枠取りして記入し、建物は一見して瓦葺・檜皮葺・藁葺の屋根が識別できる。
本堂の再建には、徳川家光から2万両の造営費が出され、奉行中坊時祐、大工中井大和守によって施工、慶安3年(1650)竣工した。鐘楼・登廊・楼門も同時に落慶。図中の登廊の中ほど右側に「廊下ノ左右牡丹多シ」と記す。これは元禄13年頃に植えられたもので、春は牡丹の名所として訪れる人も多い。與喜天満宮の大鳥居から東には藁屋根の民家が並び、街道には、多くの人々が往来しており、人力車の姿も8台見える。明治9年3月雷火により三重塔は焼失しているが本図には焼失以前の姿を描く。
半山は大阪の絵師で精密な版下画で、風景画を描いて名声を得た(『日本古典文学大辞典』『国書人名辞典』)。
明治15年に65才で亡くなっているので最晩年の画に属する。

吉野山周辺

表題 : 金峰山吉野山参詣名所之図    作成年 : 明治26[1893]
明治26年に信田幾次郎が発行した彩色刷りの吉野山・金峯山名所案内図。
金峯山は吉野から山上ケ岳(1719メ-トル)に至る地域の総称で、 吉野山は大峰山脈の北端に位置し、最高峰の青根ケ峰(標高858メ-トル)から北西にのびる尾根をいう。 吉野山から山上ケ岳までの峰続きに建立された修験寺院を総称して 金峯山寺という。中世には吉野山に蔵王堂を中心に百数十ケ寺、山上にも本堂を中心に三六坊を数え、修験道の根本道場であった。 明治初年の神仏分離令で金峯山寺はすべて廃寺になり、本堂と数ケ寺の塔頭は神社名に変身して廃絶を免れたが、他の寺院は廃絶。 その後の修験道復帰の陳情で、明治19年(1886)天台宗修験派寺院として復活。同25年2月に大阪・王寺・高田が開通。 同26年5月高田・桜井間が完成。参詣者は鉄道を利用するようになる。図中の下段に吉野川と桜が満開の 吉野山を配置し、上段に青根ヶ峰から山上ケ岳までの大峰山脈を遠望。建物の中でも「大峰山本堂」「 金峰山寺蔵(王)堂「官幣吉野宮」を大きく描く。「官幣吉野宮」は明治22年に創建、同25年竣工。吉野宮の竣工や大阪と奈良盆地の鉄道開通に刺激されて本図を発行したのであろう。
吉野山から主要都市や名所までの距離も一覧表にして記載する。
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