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飛鳥・藤原宮跡周辺は日本の国造りが始まったところ。聖徳太子生誕の地として伝えられ、初代天皇即位の伝説の地として、また歴代の天皇が都を築いたことでも知られています。また、「大化の改新」の舞台となり、初めて国家としての日本が形づくられた飛鳥は、いわば日本のふるさとです。 |
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「大和は国のまほろば…」って、どういう意味? |
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大和三山(香具山・畝傍山・耳成山)に囲まれたこの地は、眺めの美しさもさることながら、東西に連なる山々が外敵の侵入をも防いでいました。7世紀には、難波宮(大阪府)や大津宮(滋賀県)に都を移した時もありましたが、またこの地に戻ってきます。その昔、倭建命が故郷を想い、「大和は国中で一番すぐれたところ。青い垣根のように連なる山々に囲まれた大和は本当に美しいところ。」と詠んだ歌からも、この地が特別だったことが伺えます。 |
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新しい天皇が即位するたびに、宮を移したのはなぜ? |
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当時の天皇は、現代の天皇とは違い直接政治を司りました。それだけに権力抗争も激しく興亡が繰り返されました。そのため、即位した天皇は側近とともに新しい宮に移りました。また、新都の造営に労力を使わせる狙いもあったようです。しかし、藤原京の時代には政局も安定し、持統、文武、元明天皇と三代の都となりました。 |
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飛鳥時代にはどんなできごとがあったの? |
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645年の「大化の改新」はあまりにも有名ですが、その前後には蘇我入鹿失脚や壬申の乱がありました。仏教伝来とともに力をつけた豪族蘇我氏から皇室の尊厳を取り戻すために、中臣鎌足が皇位継承者である中大兄皇子(後の天智天皇)と蘇我氏失脚を企てました。その舞台となったのが伝飛鳥板蓋宮跡だといわれています。その後、中大兄皇子は都を難波宮に移し、鎌足とともに中央集権体制を整えていきます。これが「大化の改新」で、公地公民制や班田収授の法、国郡制度、税制度など律令国家の出発となる政治改革でした。再び都を飛鳥へ移した中大兄皇子は、さらに大津へと都を移し、天智天皇として即位しましたが、672年の壬申の乱では、天智天皇の弟大海人皇子が、皇位を継いだ息子大友皇子を倒して実権を握ったのです。 |
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飛鳥時代の人はどんな食事をしていたの? |
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貴族、役人、庶民など階層によって食事の種類や品数は異なっていました。例えば、貴族の食事は真鯛、鮑、鮎、古代のチーズともいえる蘇など山海の幸が並んだといい、栄養の摂りすぎで成人病…などという悩みもあったかもしれません。それに対して庶民の食事は一汁一菜が基本で、栄養失調で倒れる人も多かったというまさに質素なものでした。また、食事回数は一日二食で、天皇の場合、朝は巳の刻(現在の午前10時頃)、夕は申の刻(現在の午後4時頃)の二度。箸を使うようになったのは後の奈良時代で、当時は木製のスプーンを使っていたようです。 |
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飛鳥時代にはお金があったの? |
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飛鳥時代の通貨といわれている「富本銭」は、文字通り「国や民を富ませる本」というのが名前の由来。1999(平成11)年、飛鳥池遺跡調査によって多量に発見されました。他にも東は群馬県、西は大阪府にわたっていくつもの遺跡から出土しています。直径約2・4cm(現在の10円玉くらいの大きさ)の円形で中央に四角い孔があり、重さ約4・5g、材質は銅です。また、貨幣価値は当時の一日の日当相当(現在の7千円~1万円程度)といわれています。 |
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藤原宮って、どんな都だったの? |
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持統、文武、元明天皇の三代にわたって治められ、わが国ではじめて都城が敷かれた都です。大和三山のほぼ中央に位置し、唐の長安をモデルに東西約5・3km、南北約4・8kmという碁盤目状の大規模な市街がつくられました。役所にあたる朝堂院は平城宮のそれより大きいものだったといいます。 |
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万葉歌と飛鳥の関わりは? |
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数多く詠まれた万葉歌のなかでも、飛鳥ゆかりの歌からは、悲運な死を嘆く歌や悲恋の歌など、激しい権力抗争の時代を生きぬいた人々の逞しくも切ないこころが伝わってきます。万葉歌碑も点在する飛鳥の地を訪れ、今に残るいにしえの風景とともに万葉のこころをぜひ味わってください。 |
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春過ぎて 夏来るらし 白たへの 衣干したり 天の香具山
持統天皇作。干している白い布が新緑の香具山に映える、爽やかな春から夏への季節の移ろいを詠んだ歌。
飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ
持統天皇作。藤原京遷都の際に、夫(天武天皇)が永眠する飛鳥の里との別れを惜しんで詠んだ歌。
明日香川 明日も渡らむ 石橋の 遠き心は 思ほえぬかも
作者は不詳。今も飛鳥川に残る飛び石を渡って逢引きする、明日の夜が待ち遠しい恋心を詠んだ歌。
百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
大津皇子作。持統天皇の策略に陥り、無実の罪で処刑されることとなった皇子が、その無念を詠んだ歌。
うつそみの 人にある吾や 明日よりは 二上山を 弟世とわが見む
大伯皇女作。持統天皇が死に追いやった弟の大津皇子の死を悼み、葬られた二上山(奈良県と大阪府の境にある)に、
在りし日の弟を偲んで詠んだ歌。 |
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飛鳥時代の人はどんな服を着ていたの? |
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<男性の服装>
身分によって衣服の色や持ち物なども決められていました。コートのような長くゆったりとした上着を腰のあたりでひもで結び、ズボンのような袴(はかま)をはいていました。頭には黒い冠(かんむり)をかぶっていました。 |
<女性の服装>
髪は後でまとめ、頭のてっぺんにふくらみをもたせていました。ゆったりとした上着の下に縦じま模様のすそが広がったスカートのようなものをはいていました。 |
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この時代は唐へ何度も遣唐使を送り出していた関係で服装にも唐の文化の影響を受けています。役人や豪族など身分の高い人は色のついた服を着ていましたが、一般の人々は弥生時代からあまり変化が無くシンプルで色のついていない服を着ていたようです。 |
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