大海人皇子

おおあまのおうじ

天武天皇の即位前の名。舒明天皇の第三皇子で母は宝皇女(皇極天皇)。 『古事記』『日本書紀』の編纂を命じた。才能に恵まれ、武徳に優れ天文・占星の術を得意としたとある。 『日本書紀』では天武天皇元年(673)壬申の乱のとき、村屋神(田原本町村屋神社)が神主にのりうつって「わが杜の中を敵が来る。社の中つ道を防げ」と大海人皇子方の大伴連吹負将軍に軍備に対する助言をした。村屋神はこの功績によって神社として初めて位を天皇から賜ったという。 天武天皇から、「大王(オオキミ)」ではなく「天皇(スメラミコト)」と呼ばれるようになる(諸説あり)。壬申の乱での神がかりから、天皇は「現人神」ともなり、「世俗」的な権力だけではなく「神聖」な存在としての地位も固める。「天皇現人神」を定着させるために、各地の伝承をまとめて、そこにゆかりの人物(神)を登場させる『風土記』、神話を一つにまとめて天皇家につなげた『古事記』、その後の治世の正当性とカリスマ性を血族に宿らせた『日本書紀』の編纂にとりかかる。現天皇家が、現在も存続して決して途絶えなかった最大の礎を築いたのが天武天皇である。一方では、「神道」を生き渡らせ社稷を守るために、「平等」を唱える仏教の流布は禁止させた。  宮廷歌人柿本人麻呂の歌にも「大君は神にしませば」で始まる歌があるように天皇自身の存在もそれまでとは違う神格的な存在となっていった。