豊臣秀頼

とよとみひでより

生没年 : 1593~1615

安土桃山時代の武将。秀吉の第2子で、淀君を母とする。幼名を拾丸という。豊臣氏の世嗣となったが、秀吉没後教育にあたった前田利家の死後、徳川家康が権勢を振るいはじめ、関ヶ原の戦い(1600年)後、摂津・河内・和泉の60万余万石の一大名とされる。1603年、内大臣となった秀頼は徳川秀忠の女千姫との政略結婚を強いられ、1605年には右大臣に進んだ。しかし1614年、京都方広寺の鐘銘問題をきっかけに徳川家との合戦(大坂冬の陣)が始まり、一度は鎮まったものの、翌年再び挙兵し(大坂夏の陣)、敗れた。天守閣炎上の際、淀君と共に自害。捕らえられた子国松8歳は六条河原で斬殺された。これによって豊臣氏は滅亡した。