もっと奈良を楽しむ
郡山城の誕生から
廃城まで、そして今
令和8(2026)年は、豊臣秀吉・秀長兄弟にご注目!一年を通してテレビドラマで兄弟の物語が放映されます。ふたりは奈良とも縁が深く、秀吉は吉野山で桜の花見の大宴会を催して「一目で千本、絶景じゃ」と称賛したと伝わり、秀長は天正13(1585)年から亡くなるまで郡山城主を務めました。ドラマの舞台にもなる国史跡・郡山城の軌跡を概観します。
講師:柳澤保徳 氏
(公益財団法人郡山城史跡・柳沢文庫保存会 副理事長)
※奈良ファン俱楽部2025年12月5日の解説付き特別拝観より
郡山城のあらまし
郡山城は天正年間(1573-1592)の前半に、織田信長に命じられて筒井順慶が築城しました。そして、羽柴秀吉(天正14年より「豊臣」姓)による「豊臣政権」確立の前年、天正13(1585)年に秀吉の弟・羽柴秀長が、大和・紀伊・和泉の計百万石を領有して、郡山城に入城。畿内統治の拠点の一つとして大規模な修築を進めました。 大坂夏の陣(1615年)の後、江戸時代の郡山城は、水野勝成、松平忠明ら譜代大名が入れ替わり城主となり、享保9(1724)年から廃藩までの145年間は柳澤家が城主を務めました。
陣甫曲輪を追手門へ向かう
郡山城には幕末期まであった建物が残っていません。江戸時代、各地のお城は徳川幕府が諸大名に治めさせた土地でした。それが、明治維新で官有地になります。それに伴い、郡山城の場合、明治6(1873)年に払い下げ(民間に入札で売却)になり、建物はすべて撤去されました。現在、郡山城跡で象徴的に見える建物は追手門、追手向櫓(むかいやぐら)ですが、いずれも昭和時代に再建されたものです。このような歴史を持つ郡山城跡は、令和4(2022)年11月、国の指定史跡になりました。
追手向櫓
希少な資料に見る郡山城
秀長時代の郡山城を知る記録資料はほとんど残っていませんが、興福寺の塔頭の多門院の僧侶たちがつけていた『多門院日記』に天正年間の記述があります。天正13年に、「秀吉兄弟上下五千程ニテ被入詑」と記されているように、秀吉と秀長が5000人を従えて大和の郡山に来ました。秀長の入城です。
石垣と濠
秀長は郡山城に入城すると、大規模な修築に着手しました。その際、石材の不足が深刻で、石仏から五輪塔、墓石まで、様々な石が石垣などに転用され、中でも天守台石垣の北面にある「さかさ地蔵」はよく知られています。頭を下にして積まれていますが、顔が見えるように空間が残されています。石材を積んだ職人が地蔵像に申し訳なく感じたのか、顔がつぶれないように配慮したという話も伝わっています。
逆さ地蔵
江戸幕府は正保年間(1644-1648)に、全国の城主に対し、城や軍備を無断で増強されては厄介なので、きちんと測量したうえで城の絵図面を作成して提出せよと命令を出しました。郡山城については、正保元(1644)年頃に作成された『和州郡山城絵図』が残っています。 郡山城の修築を進めた秀長は、天正19(1591)年に亡くなりました。秀長が郡山城主を務めたのは6年間でした。あとを婿養子の秀保が継ぎますが、秀保は二十歳になる前に亡くなり、郡山での豊臣時代は終わりました。次に増田長盛が郡山城二十万石を継ぎ(1595-1600)、郡山城を内堀、中堀、外堀がそろった総構えとしました。『和州郡山城絵図』に見えるのは総構えの姿です。さらに「本丸」の文字のそばには、天守台と天守台付櫓台と思しき区画が描かれています。
天守のゆくえ
郡山城に天守があったという確かな記録は残されていません。郡山城には本当に天守が建っていたのでしょうか。 先に紹介した『多門院日記』には、天正11(1583)年に「筒井ニハ今日ヨリ天主俄ニ被上」云々とあります。筒井とは筒井順慶が建てた城、すなわち郡山城を指し、そこに「天主」(天守)が上がったと書かれています。天守は秀長の時代にも本丸にあったされますが、関ケ原の戦い(1600年)後に解体され、以後再建されることはありませんでした。一方で、天守は元々なかったのではないかという見解もあります。
天守展望台
郡山城に天守があった・なかったの論争が決着したのは、平成26(2014)年のことです。天守台石垣がはらむなどしていたため、解体修理することになり、同年3月~9月、発掘調査が行われました。天守台の土を50㎝ほど掘ると、礎石が残っているのが見つかりました。天守の規模は想像するしかありませんが、天守が建っていたことは礎石の存在とその大きさから証明されました。平成29(2017)年に整備完成した天守台展望施設に上ると、礎石の一部を見学することができます。
天守礎石
桜の名所
天守台から南側に目をやると、見おろすような格好で柳澤神社が見えます。郡山藩柳澤家の初代である吉里の父・吉保を祀る神社で、明治13(1880)年に二の丸に創建されました。2年後の明治15(1882)年に現在地の本丸跡に遷座した後に描かれた絵図『柳澤神社の遷座』では、本丸の周囲に桜が植わっているのが見て取れます。
柳澤神社
江戸時代の城には松が好んで植えられました。城に桜が植えられ始めたのは明治時代になってからです。次第に郡山城跡は桜の名所としても有名になり、平成2(1990)年には「日本さくら名所100選」(公益財団法人日本さくらの会)に選ばれました。 郡山城跡の桜は今、約600本。春、天守台展望施設に上がれば、きっと、郡山城をぐるりと飾り立てる桜を見渡せるでしょう。そして、春夏秋冬一望できる奈良盆地とそれを取り囲む青垣の山々。約440年前、秀長も眺めた風景がまだここにあります。
天守展望台眺望
本文中の情報は令和8年1月20日時点のものです。
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