もっと奈良を楽しむ
物語が心にしみる花景色。
歴史ある奈良の花景色は奥深く、物語に彩られています。珠玉のストーリーを知れば、美しさもさらに心にしみることでしょう。
一目千本!絶景じゃ、絶景じゃ。花見の愉しみを今に伝えた太閤秀吉。
吉野山には、シロヤマザクラを中心に約3万本の桜があり、その美しさを一目見ようと、毎年多くの人が訪れます。花見の楽しさを世に知らしめる一助となったのが、太閤秀吉が絶頂の勢力を誇った1594年に総勢5000人を伴い行われた太閤秀吉の大花見です。最初の3日間は雨で、秀吉を苛立たせましたが、吉野山の僧たちが、全山あげて夜通し晴天祈祷をしたところ、一転して晴れ、盛大な花見が催されました。秀吉が花見の本陣としたのは吉水神社で、当時は吉水院と称し、金峯山寺の僧房でした。その境内からは中千本、上千本が見渡せます。また、花見を催した場所は「豊太閤花見塚」と伝えられ、そこから吉野山の景色が一望できます。秀吉は「一目で千本見える。絶景じゃ、絶景じゃ」と称賛したと伝わり、「年月を心にかけし吉野山 花のさかりを今日見つるかな」という歌が詠まれています。花見の一行は、山伏や巫女の姿に扮するなど思い思いに仮装し、馬には錦の覆いをかぶせ、犬には紅の紐を引かせるなど豪華なものであったようです。さらに、能好きの秀吉は甥の関白秀次らと、金剛蔵王大権現の御宝前で自ら能を演じたという記録が残っています。この花見を契機に豊臣が支援した金峯山寺をはじめ吉野山の社寺はいずれも桃山時代の建築美を今に残し、豊臣家との縁を物語っています。
(問) 0746-32-8371 (所)吉野郡吉野町吉野山2498 (時) 8:30~16:30(受付は16:00まで) (¥) 500円(特別御開帳の期間は1,000円)(P) なし
神武天皇の恋を彩ったささゆりが咲く三輪の里。
三輪山を拝するという原初の神祀りの様を今に伝える大神神社の周辺には、古代、ささゆりがたくさん自生していました。日本書紀によると、神武天皇は、三輪山に鎮座される大物主大神(おおものぬしのおおかみ)の娘、媛蹈?五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)に求婚し、狭井河の畔にある彼女の家を訪問します。その周辺には、ささゆりが美しく咲き誇っていたとされています。この物語に因み、ささゆりは大神神社の摂社、率川神社(いさがわじんじゃ)で6月17日に行われる三枝祭(さいくさのまつり)で、ご祭神の媛蹈?五十鈴姫命に奉納されます。三島由紀夫の小説「奔馬」(ほんば)に「これほど美しい神事は見たことがなかった」と記されているほど古式豊かな美しいお祭りで、約500本ものささゆりに彩られます。前日には、大神神社からささゆりが送られる「ささゆり奉献神事」が執り行われ、ささゆりは大神神社のある三輪から列車に乗って、芳しい香りを放ちながら奈良市にある率川神社へと旅をします。今は希少となったささゆりですが、地元や豊年講の人々の手で大切に育てられています。神話に彩られ神事を支えるささゆり。その香気と可憐な姿を大神神社の「ささゆり園」で、愛でることができます。
観音様の霊験の御礼に贈られた長谷寺の牡丹。
平安時代、貴族の間で広まった初瀬詣でで知られ、数々の物語に彩られる長谷寺は霊験あらたかなご本尊の十一面観世音菩薩立像をはじめ、本堂(国宝)や登廊など魅力たっぷりの古刹。花の御寺としても知られ、特に5月は、華麗な牡丹が伽藍を彩ります。その始まりは、千年余り前に遡ります。唐の国の僖宗(きそう)皇帝の妃、馬頭夫人(めずぶにん)は、情愛深く王に寵愛されていましたが、容姿に恵まれずに悩んでいました。医師や仙人に相談すると、日本国の長谷寺の観音様にすがるのが良いと言われ、遠く海を越えた長谷寺に向かい祈願し、七日七夜を経た朝、願いが叶い美しい女人となれたので、馬頭夫人は、御礼として十種の宝物に牡丹をそえて献上したと伝わります。以来、多くの御献木により数が増え、現在、150種7000株にも及ぶ牡丹が、美しい花姿を見せてくれます。
池田 淳氏に聴く 奈良にみる日本のアイデンティティ
見立ての心 あなたの桜は何色ですか?
荒々しい戦国の気風も遠い昔のこととなり、元和偃武(げんなえんぶ)からも半世紀を過ぎようとする寛文四(一六六四)年、三味線・一節切(ひとよぎり)・筝(そう)の入門書『糸竹初心集』(しちくしょしんしゅう)が刊行され、「よしのゝ山」という歌が収められた。
吉野の山を雪かとみれば、
雪ではあらで やゝこれの
花の吹雪よの
ここでは、吉野山の桜の満開の風景が雪に見立てられている。この歌謡は大変な流行をみたようで、楽器の入門書など諸書に収録されるとともに、松尾芭蕉の俳諧や井原西鶴の著書にも、この歌が周知であることに基づく述作がみられる。また江戸の木遣歌、新潟県糸魚川市の根知山寺(ねちやまでら)の延年(えんねん)、岐阜県関市春日神社に奉納される神楽歌にもこの詞章が使われている。こうした分布は、この歌が津々浦々に広まっていた証である。
吉野山の桜を雪に見立てたのはこれが最初ではなく、『古今和歌集』に採録された紀友則の和歌にも「みよしのの山べにさける桜花雪かとのみぞあやまたれける」とある。世阿弥が後継者と目し、秘伝も伝えていた子息元雅作の謡曲『吉野山』でも吉野山の桜が「雪とのみ誤たれゆく白雪の」と謡われていた。
吉野山の桜を白い雪に見立てる心根には何があったのだろうか。
白い雪は豊年の瑞(しるし)といい吉祥であった。吉野山の桜は蔵王権現の神木とされるが、それを吉祥の白い雪に見立てることで、神性をいや増させたのかもしれない。
何よりも、雪の白さは誰にでも脳裏に思い浮かべることができる。写真はおろか絵画も未だ衆庶のものとはなっていないこの時代、桜の美しさを白雪に見立てることは、時宜に適っていたはずである。
ところで、あなたの桜は何色ですか?
池田 淳 氏
いけだ きよし
吉野町教育委員会事務局 主幹/
吉野歴史資料館 館長