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平成30年も開催!奈良大立山まつり


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天平の“生き証人”
東大寺・転害門てがいもん

取材先 「東大寺」

外観 天平の“生き証人” 東大寺・転害門天平の“生き証人” 東大寺・転害門

 「一枝の草、一把の土を持ちて、像を助けむとする情に願はば、恣に之を聴せ」
 天平15年(743)、聖武天皇は大仏建立の詔を発した。
 例え小さくとも、国民皆の力を結集して大仏を造ろうとの呼びかけは人々の心を動かし、喜捨をはじめ材木や人夫の提供など、260万人にも上る知識(協力者)を得るにいたったと、『東大寺上院修中過去帳とうだいじじょういんしゅうちゅうかこちょう』は記す。

 260万人は当時の人口の約半数だという。驚くべき規模だ。日本の人口の約半分が関わる国家プロジェクトなど、たぶんもう二度と実現することはないだろう。

 この世紀の大事業は紆余曲折を経て、詔から6年後に完成する。しかし、南都の安寧の象徴であったはずの東大寺は、平重衝たいらのしげひらの南都焼討(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の大火にさらされ、主要伽藍がらんをことごとく失ってしまうのだ。
 そんな絶望的な状況の中で、奇跡的に焼け残った建造物がある。西面大垣に開く門のうち一番北に位置する「転害門てがいもん」だ。


1300年余の時を越えて
佇む創建当時の大門

 平城左京一条大路(佐保路さほじ通り)に面することから佐保路門と呼ばれていた転害門。南北15メートル、東西7.73メートル、高さ11メートルの堂々たる規模で、ゆるやかに伸びた大棟の曲線、切妻きりづま屋根を支える八脚の円柱などが特徴的だ。雄大さと繊細さが見事に融合する姿は、しばし“天平の香り高き”と形容される。

 造営時期は不明だが、東大寺の寺域を描いた『東大寺山界四至図とうだいじさんかいししず(756年)』にはすでに「佐保路門」と描き込まれている。この期の八脚門で現存するのはあとは法隆寺だけだというから、どれほど貴重かが知れるだろう。

東大寺 大仏殿(写真:矢野建彦) 天平の“生き証人” 東大寺・転害門

東大寺 大仏殿(写真:矢野建彦)

 さて、南都焼討の後、東大寺は源頼朝の協力のもとで再興されるが、転害門もその時に大改修が施された。
 運慶・快慶の金剛力士像が出迎える南大門も鎌倉時代の再建のもので、「大仏様だいぶつよう」と呼ばれる当時の最新様式で建てられている。
転害門の改修にも大仏様のデザインが一部用いられた。だが、それは門の表側だけで、背面側は当初の用材を使用しながら創建時の「和様※1」が生かされている。
 おかげで、天平の威容を今に見上げることができるのだ。

 この門が焼け残った理由のひとつに、東大寺境内の北西の隅というロケーションが挙げられる。そう聞くと、なんだか脇役だったように感じられるが、門前の道が平城宮と一直線でつながっていることから、天皇が参拝するには 転害門がもっとも便利だったとも考えられている。
 東大寺の正門として誰もが思い浮かべる南大門は、前述の四至図には実は描かれていない。尾根筋に当たっていて平地でなかったこともあり、建設は後年だったらしいのだ。

 鎌倉時代の改修も転害門が先立って行われている。理由は京都からの街道に対する正門の役を担った可能性が高いからという。
 つまり歴史的にも機能的にも、転害門は東大寺を代表する建造物だったわけなのだ。

次々と生み出された
名前にまつわる物語

 「てがいもん」という名称は、この門を入った東に位置していた食堂じきどう大炊殿おおいどのに、水車で回して挽く中国式の石臼「碾磑てんがい」があったからだと伝わる。
 ゆえに「碾磑門」とも書かれたが、平安時代の終わり頃には「手掻門」の文字が登場する。
 これには「神祇※2を率い『知識』となって大仏造立に協力しよう」と託宣したことで知られる、豊前国(大分県)の八幡大神(宇佐八幡)に因む伝説が語られる。

 大仏完成の神助に報いるべく、聖武天皇は八幡神を東大寺の守護神として勧請した。その際、転害門から東大寺へ入った八幡神は諸神を手招きしたという。招く仕草が“手で物を掻く”ようだったことから「手掻門」の字が当てられたとされるのだ。

転害会を受け継いだ手向山八幡宮。同社に全国ではじめて八幡神が勧請された。 天平の“生き証人” 東大寺・転害門

転害会を受け継いだ手向山八幡宮。同社に全国ではじめて八幡神が勧請された。

「宇佐神輿フェスタ」を記念して執り行われた転害会の様子。(2017年10月25日) 写真:大分県 宇佐市 観光まちづくり課 天平の“生き証人” 東大寺・転害門

「宇佐神輿フェスタ」を記念して執り行われた転害会の様子。(2017年10月25日)
写真:大分県 宇佐市 観光まちづくり課

 この神迎えの様子を再現した行事が「転害会てがいえ」。現在は八幡神が鎮座する手向山八幡宮たむけやまはちまんぐうの祭礼として、毎年10月5日に行われている。
 『今昔物語集こんじゃくものがたりしゅう』では“手招いた”主役が、大仏勧進に奔走した僧・行基となっている。
 開眼供養の導師として天竺から菩提僧正ぼだいそうじょうが招かれた。その接待役を仰せつかっていた行基は僧正をこの門で待ち受け、早く早くと手招きした、と綴られる。

 中世以降はもっぱら「転害」の文字が充てられるようになった。
 先の祭礼・転害会は室町時代までは勅祭※3で、当日は畿内・伊賀合わせて6ヶ国で殺生が禁じられた。「害を転じて生かす」行事だとして「転害」が用いられたというわけだ。

 さらに「景清門かげきよもん」の別名もある。
 一門の恨みを晴らすべく、東大寺大仏再建の落慶法要で上洛する源頼朝を転害門で待ち伏せしていた平景清。当然、暗殺計画は失敗し、後に改心して二度とそのような悪心をおこさぬように両目をくり抜き、出家したと伝えられる。
 もちろん史実ではないが、景清の名はこうして門とともに後世まで語り継がれることになる。

 語呂合わせに当て字の言葉遊び。変化を繰り返しながら、まつわる伝説に当時の世相が盛り込まれていく。これほどバラエティに富んだ名称が生まれるのは、長い歴史を生き延びた所以であり、また、愛着の深さだといえるだろう。
 自分たちを見守り続ける転害門への大和人の思いが、そこににじみ出ているようだ。

転害門が舞台となる
「転害会」と「竹送り」

転害会の際、神輿は門前の4つの石の上に安置される。転害門には他にも門として必要のない施設が後に付加されているという。御旅所としての祭礼にかかわる機能に従ったと考えられる。 天平の“生き証人” 東大寺・転害門 転害会の際、神輿は門前の4つの石の上に安置される。転害門には他にも門として必要のない施設が後に付加されているという。御旅所としての祭礼にかかわる機能に従ったと考えられる。 天平の“生き証人” 東大寺・転害門

転害会の際、神輿は門前の4つの石の上に安置される。転害門には他にも門として必要のない施設が後に付加されているという。御旅所としての祭礼にかかわる機能に従ったと考えられる。

 先の「転害会」はかつては東大寺の法会であった。いつの頃からはじめられたのかは定かではないが、『東大寺要録』の記載によれば、平安時代のかなり早い時期には行われていたことがうかがえる。
 祭の当日、転害門を出発した三基の神輿は東大寺門前に形成された七郷を練り歩いた後、同門に戻ってきて安置される。渡御の行列はもちろん、ここで奉納される数々の芸能も盛大さを極めたとされ、大和を代表する華麗なる祭礼「春日若宮おん祭」に大いに影響を与えたという。

竹送りの一行は二月堂を目前に転害門前でひと休み。お迎えに太鼓が奉納される。 天平の“生き証人” 東大寺・転害門

竹送りの一行は二月堂を目前に転害門前でひと休み。お迎えに太鼓が奉納される。

 勅祭でなくってからは七郷の郷民が支え、明治時代の神仏分離後は手向山八幡宮の祭礼として氏子が守り続けてきた。現在は転害門をお旅所として神輿を安置し、神供・祭式が執り行われるだけの厳かなものとなっているが、東大寺の歴史の一端を綴る重要な祭であることに変わりはない。

1250有余年、一度も途絶えることなく続けられてきた東大寺の修二会(お水取り) 
                                        撮影:木村昭彦 天平の“生き証人” 東大寺・転害門

1250有余年、一度も途絶えることなく続けられてきた東大寺の修二会(お水取り)
撮影:木村昭彦

 さて、3月の東大寺最大の行事といえば、“お水取り”こと修二会が挙げられるだろう。大きな松明が夜空を焦がす勇壮な様を目にしようと、境内には連日、大勢の参拝客が訪れる。

 奈良に春を告げるお水取りにも、転害門が関わっている。
 お水取りのお松明には、長さ約8メートルもの“まっすぐな真竹”が使われる。1,000本に1本しかないといわれるその貴重な真竹が、産地・京田辺市から二月堂へ届けられる際、転害門で出迎えのセレモニーが行われるのだ。
 真竹は途中まで車で運ばれるが、残りの約4キロメートルほどをボランティアの人々が一本ずつを数人がかりで担いで歩く。この伝統行事も一時期途絶えていたが、やはり市民の手によって復活され、参加者は年々増える一方だという。

 そういえば、中央の柱に掲げられた注連縄も有志によるものだ。東大寺の境界を示すとされ、4年一度架け替えられている。

 メインの観光地から少し離れているせいで、訪れる人はそう多くはない。しかし、これほどまでに奈良の人々に大切にされてきた建造物は転害門の他にはないといっていいだろう。
 歴史的価値はもちろんだが、人々を惹き付けてやまない理由をその目でぜひ確かめてしほい。
 壮大さに、清冽なるデザインに、内包される伝説に、遥か遠き時の流れに。圧倒されることは間違いない。

  • ※1和様
    鎌倉時代に大陸の影響を受けてできた大仏様に対し,鎌倉以前の唐(中国)の様式の和風化した建築様式を指す。
  • ※2神祇
    天の神と地の神
  • ※3勅祭
    天皇の命令によって特別に勅使をつかわし,その祭神に幣帛を奉るもの

宇佐神輿フェスタ

宇佐神輿フェスタ 天平の“生き証人” 東大寺・転害門 宇佐神輿フェスタ 天平の“生き証人” 東大寺・転害門

大仏鋳造直後の天平勝宝元年(749)、東大寺の守護神として迎えられた宇佐の八幡神。入京の際、八幡大神の禰宜尼(ねぎに)・大神朝臣杜女(おおがのあそんもりめ)が紫の輿に乗って東大寺を礼拝したという。2017年11月25日に行われた「宇佐神輿フェスタ」は、転害会の起こりとなったこの神輿行列を再現したもので、今回が2回目。友好都市として奈良市と提携する宇佐市から若宮神輿1基、こども神輿2基が参加し、当時を彷彿とさせる華麗な祭典が繰り広げられた。

写真:大分県 宇佐市 観光まちづくり課

取材・文:宮家美樹
本文中の情報は2017年12月31日時点のものです

天平の“生き証人” 東大寺・転害門 天平の“生き証人” 東大寺・転害門

東大寺とうだいじ

東大寺 転害門  天平の“生き証人” 東大寺・転害門
写真:矢野建彦

所在地
〒630-8211 奈良市雑司町406-1
拝観時間
4月~10月
開門 7:30 閉門17:30
11~3月
開門 8:00 閉門17:00
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東大寺 転害門とうだいじ てがいもん

東大寺 天平の“生き証人” 東大寺・転害門

所在地
〒630-8211 奈良市今小路町
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手向山八幡宮たむけやまはちまんぐう

手向山八幡宮 天平の“生き証人” 東大寺・転害門

所在地
〒630-8211 奈良市雑司町434
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東大寺 二月堂とうだいじ にがつどう

東大寺 二月堂 天平の“生き証人” 東大寺・転害門
写真:矢野建彦

所在地
〒630-8211 奈良市雑司町406-1
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修二会しゅにえ(お水取り)(おみずとり)

東大寺 転害門  天平の“生き証人” 東大寺・転害門
写真:木村昭彦

開催期間
2018年3月1日(木) ~ 14日(水) 開催場所
東大寺 二月堂
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東大寺 転害門  天平の“生き証人” 東大寺・転害門

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