奈良ファン倶楽部 WEB通信『奈良宿手帖』

第5回

花屋徳兵衛~信仰とともに続く宿~


2010年に平城遷都1300年祭が行われていたとき、奈良県北部はどこも観光客で混んだ。喧噪から離れるように、私は奈良県南部方面に旅をした。この時洞川に宿泊したことがきっかけで、私はとりこになってしまった。それから奈良に移住するまでの4年間、都内からほぼ毎月洞川に通った。洞川の本も出している。
 通っていたころも奈良に移住してからも、花屋徳兵衛には何度か宿泊させてもらっているが、最初に泊まったのは大雪の大晦日だった。バスが運休になるほどの豪雪で洞川に行くことを一度諦めたが、大将に下市口駅まで迎えに来てもらったことを覚えている。滞在中もとても良くして頂いた。

天川村洞川は元々修験道の行者たちが大峰山修行の拠点とした地域だ。旅館街から3~4km先に大峯山への登拝口にある女人結界門があり、行者や登山者(男性のみ)はそこから山上ヶ岳へと向かう。


今は温泉街としても知られているが、もともとは行者宿である。温泉地としての歴史は意外と新しく、40年前に地元の人たちが温泉を掘って各旅館に引いたのだそうだ。
 旅館街のほぼ中心地にある花屋徳兵衛は、創業500年の老舗旅館昭和28年築の風情のある木造建築には趣がある。現在客室は7室。洞川温泉街の提灯のともる風景写真で見かけることも多いかもしれない。

長年、山岳修行をする行者たちを受け入れてきた洞川の宿の特徴は、大人数でも寝起きできる広い部屋があり、山から降りてきた行者が土足のまま腰がかけられる縁側があることだ。花屋徳兵衛は、他の宿と同じように大部屋や縁側を残しながらも、少人数の部屋を増築したり、オーディオ完備の暖炉付談話室を作ったりと、様々な宿泊客のニーズにも答えてきた。

数年前に新たにできた3階の客室「天空の間」は、旅館街に面した側の眺望がよい。その窓は戸袋にしまうことができ、全面を開放できるので、部屋にいながら、洞川の澄んだ空気を大満喫できる。部屋付風呂もまた窓に面しており、この部屋に泊まると部屋から一歩も出ずに過ごしたくなる。



大峯山が開山している5/3~9/23の間には、行者たちが立てる法螺貝の音や、しゃんしゃん…という錫杖の音がどこからともなく聞こえてくる時もある。自然に耳に入ってくる虫や鳥の声を聞きつつ、のんびりと過ごしたい。

大浴場の温泉は「前鬼の湯」「後鬼の湯」。修験道の祖、役行者の弟子である前鬼と後鬼の名前を冠し、浴室内に石像もある。半露天の後鬼の湯は、庭に面していて季節感が感じられる。個人的には真冬をおすすめしたい。洞川は奈良県の中でも珍しい積雪地帯で、暖かい温泉に浸かりながら、洞川の真っ白な雪をお風呂から眺められる時間は至福のひと時だ。温泉の泉質は単純アルカリ泉で、神経痛や筋肉痛、疲労回復など効果があり、厳しい山岳修行後の行者の体も、仕事で疲れた人々の疲れも癒してくれる。温泉には24時間入浴可能なのも嬉しい。



食事もおいしい。洞川は何といっても環境庁の「名水百撰」に選ばれる水が3つもある名水の里で、あちこちの店でも名水豆腐を使った湯豆腐や、あまご、鮎などの洞川の川魚などが食べられる。花屋徳兵衛に宿泊すれば、それを手間暇をかけた懐石料理として、一段と上質な味わいにしたものが食べられる。


また、冬の地元の猟師が獲った大峯猪を使った牡丹鍋が絶品だ。名水の里で育った大峯猪は、食べ物がいいのか、臭みがない。これが鍋になると、洞川のきれいな空気と水で育った野菜が、猪の美味しい脂がたっぷり溶け込んだ出汁を吸ってくれるのだ。


洞川に泊まる醍醐味の一つに、夜の温泉街の散策がある。部屋から出たくなくなると書いたのと真逆だが、ぜひ歩いてほしい。先ほども書いたように、洞川の旅館には縁側がある。つまり壁が少ない。夜は縁側の向こうの部屋がより明るく見え、そうした建物が立ち並ぶ様子が、洞川の温泉街全体がこちらに向かって開き、歓迎してくれているかのように感じられる。宿の玄関先に灯るあたたかな提灯の明かりの風情も楽しんでもらいたい。




朝食も、名水で炊いたごはんや、味噌汁、ひろうす、地元の山のものや川魚など、旅館の朝食ならではの贅沢さに、名水の里だからこそのピュアな美味しさがさらにプラスされている。美味しい朝ごはんは一日の活力源。洞川のめぐみを朝から頂いて、どこに行こうか考えるのも楽しい。

洞川は、他の観光地とは少し違う。洞川の人々は先祖代々、長い年月、信仰の山である大峰山で修行するために全国から訪れる行者さんたちを受け入れてきた。今の洞川の心地よさは、来訪者へ娯楽を提供するのではなく、「来訪者がどうしたら心地よく過ごせるか」と地域の方が考え、実践してきたからこその積み重ねだと感じる。これまでも、これからも続く信仰を守ってきた場所だということを、訪れる側も忘れないようにしたい。

夏が終わった洞川にはこれから紅葉シーズンがやってくる。洞川の紅葉はコントラストが美しい龍泉寺をはじめ、少し足を伸ばしたみたらい渓谷などでも楽しめる。日帰りはもったいない。何日でも滞在して洞川を楽しんで欲しい。


(花屋徳兵館内写真など撮影:山本茂伸)

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