奈良ファン倶楽部 WEB通信『奈良宿手帖』

第6回

古都の宿 むさし野~明日への活力が生まれてくる宿~


「むさし野」は若草山が門の目の前にある、奈良市内で一番古くからある老舗宿だ。若草山が見える宿ではない。門のすぐ前が若草山なのである。
 最初は茶屋だったそうで、のちに宿になった。江戸時代の『奈良町奉行日記』にも茶屋で休んだ記録が残る。幕末、明治の文豪などにも愛された場所だ。

武蔵野といえば関東の地名というイメージがある。なぜ奈良に?と思うが、由来がある。
 奈良時代、小野美作吾という人物が関東の武蔵野から奈良に宮仕えをしに来て、奈良ではやり病で没した。亡骸は必ず関東の武蔵野に返すようにと遺言したが、遠いのでと若草山のふもとに葬られてしまった。遺言に従わなかったことで小野美作吾の霊が怒り、祟ったので、恐れた住人がこの地の名前を武蔵ヶ原と改めて霊を鎮めたという。この話は江戸時代の歌学者、戸田茂睡が記した地誌『紫の一本(ひともと)』(天和2(1682)年成立)に残っている。
 逆に、小野美作吾は奈良の都の人で、武蔵野に赴任したという説もある。いずれも歴史書には残ってないが、こういう伝承があるのは面白い。

むさし野は、私も奈良に旅をしている時から、ずっと泊まってみたかった宿の一つだった。数年前から取材させていただいたことはあったが、一昨年に初めて宿泊して、すっかりファンになってしまった。
 前述したとおり、奈良市で一番古い老舗の宿だ。品格があるのに格式張らず、親しみやすさもある。宿に入ると広々としたフロントとロビーがある。幕末に江戸城を無血開城させた幕臣・山岡鉄舟が残していったという書が飾られており、そういった品からも歴史が感じられる。


部屋は数寄屋造りの本館2室、露天風呂、または半露天風呂がある別館5室、大浴場にもっとも近い西館5室がある。


2度ほど宿泊させてもらったが、そのうち一度は特別室「明日成(あすなろ)」だった。若草山にもっとも近い二階の東向きの部屋で、目前いっぱいに若草山が広がる。この景観はこの立地にあるむさし野ならではだ。

晴れた満月の日は「三笠の山に出し月」がよく見える!泊まった日がそんな日で、感激した。部屋にヒノキ風呂があり、そこからも若草山が見える。特別な日に宿泊したい、特別な部屋だ。



最もこの部屋ならではの醍醐味が味わえる1月の若草山焼きの日に泊まるため、かなり前からこの部屋の予約は埋まるそうだ。部屋でくつろぎながら山焼きが眺められる、特等席中の特等席。いつかこの部屋で山焼きを眺めてみたい。

食事はどの部屋でも部屋食となる。コロナ禍で個室食を始めた宿が多い中で、むさし野はそれ以前からこのスタイルをとっている。
 ところで今回この原稿を書くにあたり取材させていただいた際、「最近は和洋折衷の宿が多いが、和であることにこだわっている」と聞いた。料理にもまた、その姿勢が現れている。むさし野では食材の質と手間暇をかけることに妥協しない、純和風にこだわったからこその、極上の懐石料理をいただける。
 女将が集めているという器の数々がまた、非常に目に嬉しいもので、次はどんな料理だろうと、食べ物だけでなく器の登場も待ち遠しい。




今年の春からは、女将の娘さんが描いたお品書きが登場している。懐石料理の温かい料理は、出来立てを一品ずつ提供してくれるため、時間がかかる。それを待つ時間も、どんな味わいの旬の食材をどのように調理されているかを、素敵なイラストが描かれた冊子状のお品書きで楽しめるのだ。ただ美味しい!だけではなく、工程がわかることで喜びが更に増す。工程と気遣いもまた、ごちそうの一部になっている。


お風呂は部屋によっては部屋風呂があるほか、西館に大浴場がある。手足をのびのびと広げてくつろげる。全身がほこほこと温まった後に用意されている、洞川のごろごろ水が飲めるサービスも嬉しい。


むさし野ではいくつかの特別なプランがある。
 たとえば朝食は部屋だけではなく、ピクニック風に外で食べることを選べる。気持ちのいい晴れた日の若草山の麓で、鹿に気を付けながら食べる朝食。この宿だからこそできるプランだ。


なお、朝食はピクニック形式だけではなく、もちろん通常の部屋食形式も選べる。部屋食での朝ごはんには、「奈良のお雑煮」がつく。お正月に奈良の一部地域で食べられている、白みそときなこのお雑煮だ。年始には奈良市内のいくつかの飲食店や宿で提供されることもあるが、年始になかなか来られない人は、むさし野で味わうのもおすすめしたい。


また、出産前の夫婦最後の旅行を楽しんでもらうためのマタニティプランや、生まれた子と一緒に気兼ねなく宿泊してほしいという赤ちゃんプランもある。一般的には通常よりも不安や気苦労があり、荷物も多くなりがちで、旅行がしづらい時期だ。宿側で専用プランを用意してくれていることで、安心して出産前と後にちょっと贅沢にゆっくり過ごす時間を持てるのは、とても素敵だと思う。

女将さんや副支配人にもお話をうかがった。先代の社長は、「うちは昔ながらの宿屋でありたい」と仰っていたそうだ。確かにその思いで今も純和風の設えや空気を大切にしていることが、館内のいたるところからも感じられる。「先代社長の思いを受け継いだ今の女将や従業員の方々の思いを、これからの時代を担う方たちに継承していくことが大切」という話に、私も大きく頷いていた。

江戸時代ごろから始まった若草山焼きはコロナ禍でも毎年行われている。冬には山焼きが行われ黒こげになり、春には芽吹き、夏には青々とした草が生い茂る。秋にはススキの波も美しい。むさし野に滞在すると、若草山の生命力を感じる。生きもののエネルギーが、人の営みが、つながり循環することを考える。

のんびりと滞在しながら自然にエネルギーを重鎮し、また新たに明日からも頑張ろうという気持ちが湧いてくる宿だ。


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