奈良ファン倶楽部 WEB通信『奈良COTO絵巻』

誰にも会わない奈良~脱三密!歴史探訪~

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三密にならない奈良の旅に出かけよう!

第1回

疫病退散への願い 延喜式内社を往く

今年、日本列島各地やインターネットの世界には、奇妙な妖怪が姿を見せた。その名もアマビエ。江戸時代の弘化3年(1846)4月、肥後国(熊本県)の海中から出現し、「疫病が流行するから、自分の姿を描き写して早々に人々に見せよ」と言ったと当時の印刷物にある。それから33年後の明治12年(1879)、日本は疫病大流行の真っ只中にあった。令和2年のわたしたちと同じように、人々は願いを込めて絵を描き、文字を刻んだ。その思いとは――???

近鉄奈良駅前から西へ約8km、奈良市三碓(みつがらす)町に鎮座する添御縣坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)。創建は1400年前にさかのぼるといわれ、延長5年(927)に完成した「延喜式」の神名帳に名前の載る式内社である。五間社流造(ごけんしゃながれづくり)の本殿は全国的にも珍しい南北朝時代の建物で、永徳3年(1383)に建立された。保存状態もよく、昭和25年には重要文化財に指定されている。こんもりとした杜に囲まれた境内はほどよい広さで、すみずみまで掃除も行き届き、地元の人々に大切に守られていることがよくわかる。

ところでこの拝殿には、まさにコロナに振り回される今年を思わせるような絵馬が掲げられている。明治12年9月に奉納されたコレラ退散を願う絵馬である。コレラは「虎列拉」などと表され、日本では文政5年(1822)に近畿、東海で初めて流行し、安政5年(1858)にアメリカのミシシッピ号が長崎に持ち込んだときには、江戸を中心に3~4万人が亡くなったという。しかし明治12年の流行は桁違いだった。全国で16万人強が感染し、10万人を超える人々が命を落としたのである。

この時代、最後に頼るのは神さま仏さまである。感染は奈良にも及び、三碓でも村を挙げての神頼みが行われた。絵馬には「今般虎列拉病流行ニ付、村民一同、為安全祈修」とあり、祈願に向かう180人もの人々が描き込まれている。まだ暑い盛りか日傘をさす人、子ども連れの母親、顔見知りどうし挨拶する姿も見られる。疫病除け祈願とはいえ、そぞろ歩く人々の姿はちょっと楽しげで、境内図ならではの賑やかさもある。なお三碓の名前の由来となった石がある根聖院が神社に隣接しているから、本尊のお薬師様を併せて参拝したい。

一方、明治12年のコレラに打ち勝ったとして、神への感謝を刻んだ石碑が香芝市の志都美神社にある。志都美神社はJR和歌山線志都美駅から西へ約650m、藤原鎌足の子孫・片岡綱利により弘仁4年(813)に創建されたと伝える式内社だ。「志都美」の名は「椎積み」に由来するとも言われ、境内の北側には椎の木を中心とした原生林がうっそうと繁り、県の天然記念物に指定されている。

神社の本殿の後ろには、まるで石垣の中に封じ込められたかのような石碑がある。碑文には「明治十二年八月、虎列拉病流行、氏子祈願、無一人患者、庶人歓呼奉納」、志都美神社の氏子からはコレラ患者が1人も出なかったと刻む。氏子たちはご神徳に歓喜し、感謝の気持ちからこれを建立したのである。もともとこのように建てられたのか、あとから石垣の中にはめ込まれたものかはわからない。しかし今に残るこの姿からは、絶対にこの奇跡を忘れない、後世に伝えたいという強い思いや、疫病を封じ込めんとする強い意志が伝わってくる。なお本殿の東には絵馬殿があり、「高砂」「那須与一」「本能寺」など、毎年奉納されてきた絵馬の数々を見ることができて面白い。これもまた神様に楽しんでいただこうと思いを込めて作られたものだ。絵にして奉納する。文字にして建立する。人知を超えた奇跡を願う人々の思いは、今も昔も変わらない。

今回のぼっち旅。すれ違った人の数は、添御縣坐神社で3人、志都美神社で0人。密じゃない!

添御縣坐神社(奈良市三碓町)。右手は拝殿で、木々の中に本殿の覆い屋も見える。左手は神楽殿

明治12年(1879)に奉納された「虎列拉」退散を願う境内図絵馬

志都美神社(香芝市今泉)。かつては清水八幡とも呼ばれ、手水鉢にも八幡宮の名を刻む

社殿後ろの石碑。内容はそれぞれ異なるが、いわゆる「コレラ碑」は日本各地に建立された

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