電車でバスで、野越え山越え何秒何分何時間、もひとつおまけに幾日かけて、辿り着いたは青丹よし寧楽のみやこの心地良き。仰ぐたび、見るたび、聴くたび、触るたび、奈良踏みしめし喜びを、じわじわ地味~に噛みしめたくて、狭くしつこく歩く旅。
あァ、奈良に来た! 第3回
いつしか体は大きく前のめりになり、足元を見ながらただただ歩を進める。一息つこうと空を見上げても、目に入るのは覆いかぶさってくるような暗く重々しい木立。大阪から奈良へ向かう急こう配の峠道は、誰が呼んだか、暗越(くらがりごえ)奈良街道―。
江戸時代、暗峠を越えて奈良と大阪を結ぶ「暗越奈良街道」は、重要な幹線路だった。参勤交代の道として、商いの道として、またお伊勢参りの参詣路として、大名から庶民までおおいに利用されてきた。しかしながら幹線なのに「暗がり」とは妙な命名で、追いはぎでも出そうなぶっそうな名前である。名前の由来には諸説ある。文字通り、昼間でも暗いから。かつては「くらがねとうげ」(椋嶺峠)だったのが「くらがり」に転訛したから。あるいは坂道が急すぎて転がってしまうほどで、転がり→ころがり→くらがり→暗がり…。いずれにせよ、この道に「暗」の字を当てた心情は、大阪側から登って来れば納得できる。
江戸時代の旅をまねして、まだ暗い夜明け前に枚岡神社を発つ。いきなり容赦のない急こう配が続く。滑り止めがほどこされた道路だが、雨の日の大変さは想像に難くない。想像以上の坂道にもたついて、山道に入る前に朝になる。昔はもっと悪路で、もっとエラかったに違いない。明るくなったついでに振り向けば、いろんな「現代の何か」に霞む大阪の街が見える。ちょっとばかり感傷にふけったら、街とは決別していよいよ山間の道へ。
ところで、「廃ウェイ(ハイウェイ)」に「酷道(国道)」「険道(県道)」…、一度は耳にしたことがあるだろう。平成に入っての新しい揶揄語だと思いきや、なんのなんの、昭和30年代にはすでに巷に誕生していた言葉らしい。そしてこの暗越奈良街道はまさかの現役の「国道308号線」であり、急こう配のつづら折り、峠に敷かれたあるモノのゆえに「酷道」と呼ばれる。枚岡を出てゆっくりゆっくり歩いて1時間20分、暗い森を抜け、弘法の井戸を過ぎ、ようやく里山の風情が漂うひらけたところに出る。ここまでくれば酷道の名前の由縁たる峠も近い。しばらく進むと、国道なのに車が1台しか通れない今日一番の狭路に差し掛かる。踏みしめる道が俄かに凸凹した感触に変わる。暗峠名物、石畳の道である。石畳は郡山藩によって敷設されたといい、酷道マニアによれば、この石畳は酷道の中でもひときわレア、らしい。
峠を越え、生駒信貴スカイラインの下をくぐれば、目の前に広がるは大和の国、生駒の里山。青々とした段々の田や畑が、斜面に沿って幾重にも広がっていく。さっきまでの暗がりがうそのように視界が開け、空が気持ちいい。このほのぼのする感じ。ああ、奈良に来た~と思える瞬間だ。これは大阪側から峠を越えてこないと味わえない喜びである。酷道の「酷」の字は「ひどい」と読むが、意外や意外、酒や食べ物の深みある味わい「コク」を意味する文字でもあるそうな。つまり、酷道308号線は「酷い道」ではなく、「コクのある道」と言ってもいいんじゃないかな。うん、きれいにまとまりました。
まだ暗い枚岡駅を出発
河内国一之宮枚岡神社は「元春日」とも呼ばれ、春日大社とゆかり深い
霞む大阪の街
暗峠の石畳の道(奈良側から)
生駒信貴スカイラインの親切な看板。峠道の上を走っていることを教えてくれる
奈良側に広がる里山の風景