電車でバスで、野越え山越え何秒何分何時間、もひとつおまけに幾日かけて、辿り着いたは青丹よし寧楽のみやこの心地良き。仰ぐたび、見るたび、聴くたび、触るたび、奈良踏みしめし喜びを、じわじわ地味~に噛みしめたくて、狭くしつこく歩く旅。
あァ、奈良に来た! 第8回
行く先々で予想もしなかったものに出合う。それは旅の醍醐味である。反対に、出合えると決めてかかって行ったのに、出合えないこともある。それもまた旅の醍醐味である。出合えなかったら、出合えなかったことを楽しみ、また別の出合いにうつつを抜かせばいい。目にした出来事をいかに楽しむか、それもまた旅の技術である。
要は見れなかったのです、雲海を! 紀伊半島の奥深く、奈良県南西部に位置する村、野迫川。「天空の國」を謳うとおり、標高約400~1300mの高地にあり、特別な山登り無用、極端な話、車から一歩も出ずとも雲海を眺めることができる村、野迫川。一年中、気象条件さえ整えば、夜明け前から早朝にかけて美しく荘厳な雲の波を楽しめる村、野迫川。とくに春と秋は雲海出現率も高く、「雲海ナビ」サイトにもその名を轟かしている村、野迫川。さらには初めて村を訪ねた人も簡単に雲海を見つけられるよう、道の途中にいくつもの「雲海スポット」看板を立ててくれてある村、野迫川。そんな野迫川村に、朝2時半に奈良を出立、意気込んで出かけてはみたけれど、前日から少しずつ天候の具合いがずれ、頼みのサイトの雲海出現率も74%から40%にダダ下がり、結局 “予想通り”雲は湧かなかったのである。
前後したが「野迫川」と書いて「のせがわ」と読む。野迫川村は、明治22年(1889)の町村制施行による合併でできあがった。村名は、野川組5ヶ村、川波組4ヶ村、迫組6ヶ村のそれぞれの組名から1文字ずつとって、「野迫川」としたという。野川組は現在の村の北部に位置する集落で中原川沿い、川波組はその少し南の池津川沿い、迫組は村の南半分、川原桶川や北股川沿いにあり、それが行政的に一村にまとまったわけだ。野迫川村を初めて訪れる誰もが感じることだろうが、野迫川村内の移動には、ほかの奈良県南部の町村とはやや異なる感覚を味わう。集落と集落があまりにもくっきりと分かれ、かつ離れているのだ。加えてその道中は、道こそよく整備されてはいるものの、山あり谷ありカーブあり、鹿あり猿あり兎ありの、人の気配のない山道である。まるで別の村どうしを行き来している感覚に陥るのは、この歴史的背景による。
にわか雲海ハンターは、それでも村内の雲海スポットとされる高野辻休憩所、天狗木峠、日本三大荒神のひとつ立里荒神社(たてりこうじんしゃ)に雲海を求め、山道を行き来したが、まぁ、出ないものは出ない。その代わり、遥か彼方まで幾重にも連なる山の端が、その谷あいを朝もやにぼかしながら、昇る朝日に刻々と色合いを変えるさまを存分に味わうことができた。これは雲海が湧かなかったからこそ楽しめた眺めである。絵のように美しい風景から、目の前に広がる山中に目を移せば、いたるところに見られるのが高野槙(コウヤマキ)の木である。ぐんぐんと天を突くように伸び、気持ちがいい。野迫川村は隣県の高野山と深いつながりをもって発展し、村のほぼ中央を、世界遺産・熊野参詣道小辺路(こへち)が縦断する地であることをふと思う。
そういえば、弘法大師は野迫川村の野川弁財天の神像を手ずから彫り出したと言われ、また民話には、野川の弁天さんがあまりに美しいので、頻繁に夜這いに来ていたという。さすがに朝帰りを人に見られては困るので、その験力で霧を這わせ、霧に紛れて高野山へ戻ったそうな。夜明け前の霧は、雲海出現のバロメーターでもある。さてはお大師様、昨夜はいかなる事情か、弁天様にはわたらせなかったらしい。
刻々と変化する天狗木峠の夜明け
雲海スポット・高野辻。残念ながらこの日、雲海は見られず
鳥のさえずりのほか音のしない山あいに、この地に落ちのびたという平維盛の塚がある
そばには誇らしげに林道開通の記念碑が立つ。村にとって道がいかに大切だったかを知る
野川弁財天の特徴あり過ぎな狛犬と素朴な龍
同じく野川弁財天にいた「肉球」