電車でバスで、野越え山越え何秒何分何時間、もひとつおまけに幾日かけて、辿り着いたは青丹よし寧楽のみやこの心地良き。仰ぐたび、見るたび、聴くたび、触るたび、奈良踏みしめし喜びを、じわじわ地味~に噛みしめたくて、狭くしつこく歩く旅。
あァ、奈良に来た! 第5回
それは明治9年(1876)のこと。明治維新で誕生した「奈良県」は、突如として大阪の「堺県」に編入された。「奈良が堺県になるって!」「ほんまかいな」「そない言うてたで」と、巷はその話で持ちきりになったに違いない。そう、「ちまた」では―。
「巷(ちまた)」は、いまでは「町なか」「世間」の意味で用いられることが多いが、もともとは「道(ち)の股(また)」であり、分かれ道や交差点のことを指した。いくつもの道が交差すれば大勢の人やモノが行き交い、市が立ち、人が住み、やがて町になる。ふだんよく使う巷の意味はこんなところから生まれたのだろう。
ところで古代奈良のちまたといえば、桜井市金屋付近にあった海石榴市(つばいち)がある。東西南北を走る主要な街道が集まった海石榴市は、「八十の衢(やそのちまた)」と呼ばれた。その八十の衢から、13kmばかり西へ進んだところにあったのが「當麻衢(たぎまのちまた)」だ。いまの長尾神社(葛城市長尾)のあたりという。八十の衢から當麻衢へ通ずる道は最古の官道・横大路。横大路は當麻衢で竹内街道(丹比道)につながり、竹内峠を越えてさらに西進し河内に至る。長尾神社周辺は、横大路と竹内街道が接続する衢なのである。
とはいえ現在の神社周辺は街道の雰囲気は残るものの、衢と呼ぶにはのどかである。なんとしても古代のにぎわいを彷彿させる「衢」を見たい―。そんな向きは香芝市西部の「穴虫」「穴虫南」交差点を経由して奈良と大阪を行ったり来たりしてみるといい。穴虫南交差点はまさに現代の衢である。横大路をほぼ踏襲する国道165号線と、長尾・當麻方面からの大和高田バイパスがX字形に交差し、田尻峠から河内に至る長尾街道(大津道)と、穴虫峠を越えて太子町から羽曳野市古市に至る穴虫越えに分かれる。穴虫越えは竹内街道と太子町で合流し、飛鳥時代の王族が眠る“王陵の谷”、磯長谷古墳群にも通ずる。沿道は河内ぶどうの産地で、山の斜面にはぶどう畑が広がり、点々と「市」ならぬ直売所が立つ。
横大路・竹内街道が官道として整備され、難波と飛鳥を結んだのは推古天皇21年(613)だが、官道整備以前から河内と大和を結ぶ重要な交通路だった。有史以前から塩や土器が流通し、古墳や寺院・宮殿用の石材を乗せた修羅がひかれ、遣隋使や大陸からの技術者・文物が往来した。聖徳太子ら王族の葬送の列が通り、壬申の乱では両軍衝突の舞台にもなった。都が平城京に遷った後も廃れず、中世には「海の堺」と「陸の今井(橿原市)」を結び、近世には長谷や伊勢、熊野などへの参詣路としても栄えた。大正から昭和初期には高師浜海水浴場(堺市・高石市)と別荘地が人気を集め、奈良からの海水浴客もこの道を利用した。二上山の北麓や南麓を通って奈良と大阪を結ぶ道は、現代にも活躍する古代の道なのだ。
時を経て大阪湾岸は臨海工業地帯に様変わりした。万葉に詠われ、“東洋一の海水浴場”と謳われた高師浜はすでにない。松林のある景観の保護のため、明治6年(1873)に堺県令・税所篤が開設した浜寺公園に名残を留めるのみだ。そう言えば、ちまたの話題をさらった奈良県編入事件は、熱心な民間運動の末、明治20年(1887)に奈良県再設置が叶った。編入当時の県令だった税所篤は「驚愕千万かつ迷惑」と大久保利通に手紙したほどだったから、再設置運動に力添えしている。もっとも仕事は仕事、県令時代には“堺県大和地方”の改革に尽力し、堺県庁と奈良を結ぶ竹内街道も拡張整備した。また奈良県再設置後は初代県知事となり、松の植樹などを行って現在の奈良公園の基礎を作った。奈良公園の松吹く風に、街道が結ぶ奈良と堺の意外な縁を思うのも面白い。
現代の衢とも言える「穴虫」「穴虫南」交差点
長尾神社から西へ、竹内街道旧道沿いに残る大和棟
穴虫越えの県道73号沿いには石棺や寺院の基壇の採石場だった屯鶴峯がある
県境付近には葛城・金剛山系を縦走するダイヤモンドトレールの登り口も
香芝市穴虫の大坂山口神社。長尾街道沿いの要衝の地に鎮座する
高石漁港から見た現代の「高師浜」。運河の反対方向には浜寺公園がある